在日韓国人良心囚の再審について 『南営洞1985』大阪上映会に参加されたみな様へ
1970年代〜80年代の韓国は、軍事独裁政権による暴力統治の時代でした。しかし「暗黒の時代」は同時に、民主化運動と労働運動、そして平和統一運動が果敢に展開された「希望の時代」でもありました。100名を超える在日韓国人良心囚の存在は、まさにそうした時代精神を体現したものといえるでしょう。 献身的な運動により民主化が一定の進展を見るなか、金大中政権期の2001年に国家人権委員会が設置され、盧武鉉政権期の2005年12月、「真実和解のための過去事整理委員会」(以下、「委員会」)が発足しました。 「委員会」は朝鮮戦争前後の住民虐殺、独裁政権下の人権弾圧、スパイ捏造事件など、過去の国家犯罪を究明し、被害者の救済に向け再審への道を開く機構です。「委員会」は李明博政権期の2010年6月末に解散しますが、2006年12月、「在日韓国良心囚同友会」は在日韓国人“スパイ”事件の真相究明を求める要望書を「委員会」に提出しました。これを契機に、多くの仲間が再審への困難な道のりを歩み始めたのです。 2010年7月15日は、歴史的な日となりました。李宗樹氏がソウル高裁で無罪判決を勝ちとったのです。検察が上告を放棄したので、一週間後に無罪が確定しました。それ以降、2013年6月末の時点で、14名に無罪判決が確定しています【別表を参照】。また、高裁で無罪判決の2名が最高裁に係留中で、1名が1審の判決を控えています。そして再審が受理された3名が公判待機中であり、再審請求の準備を進めている仲間も少なくありません。 その間、多くの方々が私たちの再審請求運動を支えてくださいました。在日韓国人“スパイ”事件の真相が究明され、私たちが名誉を回復しつつあるのも、ひとえに皆さんのおかげです。心よりの感謝を述べるとともに、これからも温かい御支援をお願いする次第です。 2013年7月6日 「在日韓国良心囚同友会」一同
ときは全斗煥政権下の1985年9月 ところはソウル南営洞の治安本部・対共分室 (『南営洞1985』上映会パンフレットより) ときは全斗煥政権下の1985年9月 ……あの5.18光州民衆抗争から5年、1987年6月民主化闘争まであと2年…… ところはソウル南営洞の治安本部・対共分室 ……中央情報部(安全企画部)、国軍保安司令部とならぶ民主化運動弾圧機構の中枢 いきなり繰り広げられる暴行、拷問シーンにこの映画を観る人は驚きと戸惑いを覚えるかもしれない。1980年5月の光州民衆抗争を同時代の出来事として記憶している人にとっては、全斗煥政権期の韓国の国家暴力のすさまじさは、聞き及んでいるにしても、その頃まだ生まれていなかった若い人々には、あるいはヒューマンで洒落た作品の多い韓流映画に親しんできた人々には、この映画全編を貫く拷問=権力犯罪の凄まじさは理解を絶するかもしれない。 この映画は当時、民主化運動青年連合(民青連)の議長だった故金槿泰氏(2011年12月30日逝去)の自伝的手記『南営洞』を原作としている。拷問される人間と拷問する人間との密室での言語を絶する極限状況が事実であったことを理解するためには、この映画の舞台と時代背景がどのようなものであったかを振り返ってみる必要がある。それはこの映画のタイトルがなぜ「南営洞1985」なのかに思い到ることにもなるだろう。 まず、時代背景。1985年9月4日南営洞対共本部に連行されてから22日間にわたって金槿泰に加えられた拷問と事件のデッチ上げはどのような政治的社会的脈絡のなかで遂行されたのか。1980年の光州民衆抗争を銃剣で制圧しながら政権を掌握した全斗煥新軍部に対して韓国の学生運動、民主化運動陣営は新たな闘争の理念と形態を模索しながら苦闘を重ねていた。学生活動家たちは工場に偽装就業し労学連携を模索した。85年ソウル九老工業団地の九老連帯ストライキはそうした影響下で起こった画期的な連帯ストライキだった。ソウル大では学生たちが民主化推進委員会(民推委)を組織して反独裁・民主化闘争に取り組んでいた。当時38歳だった金槿泰は民青連を組織し反独裁民主化闘争の大衆的基盤の拡大を図っていた。この民青連は学生運動圏に影響を与えるとともに、学生運動といわゆる在野民主人士たちの民主化運動を結び付ける媒介項の役割も担っていた。全斗煥政権は徹底した恐怖政治体制にも関わらず下から吹き上げて来る青年・学生たちの反独裁・民主化闘争の芽をつぶそうと躍起になっていた。民青連・民推委を容共地下組織であるとデッチ上げ、在野の民主人士や宗教界の民主的指導層の民衆への影響力を断ち切るためには、いかなる手段を講じてもその中核にいた金槿泰から虚偽自白を引き出す必要があった。「拷問技術者」李根安(映画では李斗漢)にフリーハンドを与えても。 次に物語の舞台である。ソウル南営洞にあった治安本部(現在は警察庁に改名)の対共分室は、反共軍事独裁国家における反共=国家安保を名目とした反政府活動弾圧機構の中枢であった。中央情報部(のちの安全企画部、現在は国家情報院)の対共分室がその所在地から「南山」と呼ばれ、国軍保安司令部が「西氷庫」と呼ばれたように、「南営洞」は拷問をこととする公安警察の代名詞として恐れられていた。南営洞の対共分室は中央情報部(安全企画部)とは違って主として国内のいわゆる「自生的共産主義者」を標的としていた。 韓国現代史における民主化闘争の分水嶺は1987年である。その87年民主化闘争の発火点は、1月にソウル大生パク・ジョンチョル君が南営洞対共分室に連行され、同僚の学生活動家の居所を言えと水拷問され窒息死したことが発覚し、それを隠ぺいしようとした治安本部に国民世論が激昂したことだった。しかしその時すぐに反拷問・反独裁の国民的闘いが火を噴いたのは、その2年前、1985年の金槿泰の法廷での拷問暴露という果敢な闘争と、それを契機に民主化運動陣営のなかに反拷問闘争の組織が作られ、粘り強い闘いを通して作られた反拷問の火種があったからだった。 (金元重 千葉商科大学教員)
挑戦する監督と俳優たち (『南営洞1985』上映会パンフレットより) 2012年1月、『折れた矢』という映画が封切されたことで、忘れられていた映画監督の名前が不死鳥のようによみがえった。チョン・ジヨン(鄭智泳)。『折れた矢』は、実話をもとにしている。入試ミスを指摘したある大学教授が大学当局からうとまれ、不当に雇用を打ち切られたことが発端で、獄中から裁判闘争を闘う物語だ。チョン・ジヨン監督は事実上の自主制作で、この映画に取り組んだ。この時、教授役を国民的俳優と呼ばれるアン・ソンギが引き受けたこともあり、映画は興行的に成功、チョン・ジヨン監督の名前は、われわれの元に戻ってきた。 1946年に忠清道で生まれたチョン・ジヨン監督は、南北分断の日常的な抑圧感を鋭く描き出した1961年の韓国映画の名作『誤発弾』に感銘を受けて映画監督の道を志したという。1987年の民主化宣言後、北側のパルチザンとして戦った当事者の手記でベストセラーとなった『南部軍』を映画化する際、これを監督したことがチョン・ジヨン監督の転機になった。監督は検閲する当局から、「あそこを削れ」「これは出すな」というあまたの要求と闘わねばならなかった。描ききれなかったことは多いが、反共映画の枠を脱却する初めての挑戦としての意義は大きい。 監督の挑戦は、ベトナム戦争への韓国軍参戦へのとらえ返しへと進み、1992年の『ホワイトバッジ』へと引き継がれ、この作品で東京国際映画祭グランプリを受賞した。アン・ソンギ主演で、日本でも一般劇場公開された作品だ。だが、その後の作品が興行的に振るわず、1999年公開の作品『カ』以降は作品がなかった。 チョン・ジヨン監督が『折れた矢』で復活への挑戦に成功して、次に挑むことになったのが『南営洞1985』だった。もとになった歴史的事実については金元重教授の解説に譲るが、拷問の後遺症に苦しんできた被害者のキム・グンテが2011年12月に亡くなったこと、2012年12月に大統領選挙があったことが、この映画の製作を促した。2012年後半には、光州闘争の被害者やその家族たちが、軍のリーダーで虐殺の指令者と見られるチョン・ドゥファン(全斗煥)に謝罪を迫ろうとし暗殺をも視野に入れて準備を進める『26年』、パク・チョンヒ(朴正煕)政権時代の弾圧を再構成し検証するドキュメンタリー『維新の追憶』などの意欲作が登場、特に『26年』は興行的にも成功した。 ところで、チョン・ジヨン監督の『折れた矢』で、かつては労働弁護士として活躍しながら現実の弾圧を阻止できず、挫折感に陥っていたものの、この事件を担当して立ち直る役柄を演じていたのがパク・ウォンサン。彼は、韓国軍のベトナム参戦を批判的視角でホラーとして描き出したコン・スチャン監督の名作『R-POINT』にも出演した。『南営洞』では主役のキム・ジョンテを演じている。実は彼は脇を固める名優としてたくさんの作品で出演しており、今年大ヒットした『7番房の贈り物』でも印象的な姿を見せている。 『折れた矢』で判事として出演し、『26年』ではチョン・ドゥファン懲罰計画のカギを握る重要人物として登場した、そしてさかのぼれば『ホワイトバッジ』でアン・ソンギとともにベトナム帰還兵士役を担ったのがイ・ギョンヨンだ。彼が『南営洞』では最悪の「拷問技術者」イ・ドゥハンを演じた。イ・ギョンヨンは韓国映画界の大ベテランである。 パク・ウォンサンは、『ホワイトバッジ』は自分の「人生の映画」のうちのひとつだという。そして、映画雑誌『シネ21』におけるイ・ギョンヨンとの対談で、パク・ウォンサンは拷問場面撮影の苦痛を吐露している。拷問される演技を繰り返し、体重も減らしてつらい撮影を続けていると、共演者が休憩時間に談笑していることも気に障るようになり、キム・グンテが手記で書いていた、「自分を拷問する人よりも、拷問室で耳に入ってくるラジオの女性アナウンサーの声が憎らしく思えた」といった一節を思い出したという。 この映画は、監督と俳優たちが地下室において、キム・グンテと拷問者を追体験して作り上げられた。その苦痛は映像にしっかりと焼きつけられているはずだ。彼らの挑戦を、私たちは日本の地でどのように記憶できるだろうか。 (石坂浩一 立教大学教員)
関西実行上映委員会を代表して (『南営洞1985』上映会パンフレットより) 本日上映会にお越し頂いた皆様に深く御礼申し上げます。 またこの映画を製作し、日本での自主上映に快く応じて下さった鄭智泳監督に感謝いたします。 私たちにとってこの映画はあまりにも辛く、耐え難いものがありました。しかし軍事独裁時代の苛酷な実態、また百数十名を超える私たち在日青年学生たちのスパイ事件がどのようにでっち上げられたのかを日本の皆さんに理解していただくためにも勇気をふるって上映することを決心いたしました。 この映画は上映開始直後から最後まで殴る、蹴る、水拷問、電気拷問などの息することすら辛い場面が続きます。また暴力の前に非力な人間の姿が表されています。しかしいつの間にか主人公と二重写しになって拷問を受け、自分の非力さを責めている私自身にもう一人の主人公がそっと歩み寄り、優しく声をかけてくれた、その言葉で私は救われ、癒やされる思いがしました。 そう言う意味でこの映画は粉々に砕かれて傷つき、深い闇の淵に囚われていた自分の魂をいたわり慰めて解放させてくれる、そのような気がしました。 私は誰よりも苛酷な暴力によって無力化され、底辺まで下った金槿泰さんが同じように傷ついたすべての魂を癒やし、蘇生させて下さったのだという思いが体中に満ちていくのを感じました。金槿泰先生に心より感謝しながら、韓国民主主義のために一生を献げられた金先生のご冥福をお祈りいたします。 2013年7月6日 李哲(在日韓国良心囚同友会)
『南常洞(ナミョンドン)1985』上映会に寄せて ―2013.7.6大阪、7.7東京― (『南営洞1985』上映会パンフレットより) 本日は、上映会にお越しいただきまして、ありがとうございます。
私は、故金槿泰氏の著書『南営洞』を読み、そして、去年11月、鄭智泳監督によって映画化されたということを知り、日本で上映会をやりたいという思いで、知人を介して映画製作者に連絡をしたところ、3月に日本での上映について快諾を得ました。そして、4月に『南営洞1985』上映会実行委員会が組織され、東京・大阪で上映されることになりました。 私が活動しているNPO法人は、1970年代、1980年代に韓国で起きた「在日韓国人スパイ事件」により、事件をねつ造された在日韓国人良心囚の再審裁判による無罪確定を支援し、国家による賠償を実現すること、そして事件により失われた日本における法的地位(特別永住資格)の原状回復を実現するため設立したものです。在日韓国人良心囚は、約160名いると言われています。現在、14名の再審無罪が確定し、4名が再審裁判中、3名が再審裁判待機中、9名が再審裁判準備中となっています。 『南営洞1985』は、衝撃的な映画です。故金槿泰氏の魂が乗り移ったような映画です。今日、この映画をご覧になった方々が、1980年代の韓国の軍事独裁の真実とスパイねつ造事件の真実、そして在日韓国人スパイねつ造事件の真実を理解していただけたらと思います。この映画を観ていただけることに感謝の意を表します。 東京上映実行委員会を代表して 金整司(NPO法人 在日韓国人良心囚の再審無罪と原状回復を勝ちとる会・理事長) 映画『南営洞 1985』の上映に寄せて (『南営洞1985』大阪上映会パンフレットより) 人々は、むごたらしい拷問のシーンに怒りをおぼえます。 けれど拷問は、その場限りの一過性の暴力ではありません。計画的で、意図的に繰り返される暴力です。拷問を受ける被害者は限りなく加え続けられるであろう苦痛を予感し、それが恐れへと変わっていくなかで、その恐怖におののき、震え出さずにはいられなくなります。 拷問技術者たちは、自分たちの経験を通じ、被害者がもっとも耐えられないであろう方法を見つけだし、苦痛を加えていきます。被害者が自己を放棄し、加害者の要求に従うようになるまで、拷問は繰り返されます。ましてや、強大な国家権力がこのような拷問を一個人に加えたとしたら、その個人は到底耐えられるはずもなく、ある瞬間を境にその苦痛から逃れる最善の道は死しかないと思うようになります。被害者は死を望みはじめます。 その苦痛の果てには、権力への迎合や取引が待ちかまえています。 加害者は物理的暴力を駆使するだけではなく、虐待、愚弄、脅迫と懐柔を繰り返した後、被害者自身や他人の自由を担保に取引を持ちかけます。まるで被害者自らが提案したかのように取り繕いながら……。その取引は強要されたものであり、けっして公正なものではありません。しかし苦痛から逃れるためには、被害者はその不当な取引に応じざるをえません。その結果、残されたものは、決して消し去ることのできない自身への罪悪感であり、後悔の念です。 過去のノ・ムヒョン政権下において行われた「過去事整理委員会」で調査された国家暴力事件の被害者たちが、自身の被害について明瞭に述べられない事例が数多くあります。無間地獄のような絶望を経験した彼らが見せる共通した姿です。自分自身を取り戻す道への第一歩は、このような苦痛の経験をさらけ出すことからはじまります。 韓国社会からも差別され、疎外された在日韓国人たちを切り刻んだかつての国家安保という刃が、いまだ過ちをかえりみようとしない国家権力の手に握られたままでいます。いかなる救いの手も望めない脱北者たちが、数ヵ月間という長期にわたり拘禁されています。もっとも力のない社会的弱者である彼らは、今どんな恐怖におびえているでしょうか。 拷問は過去のこと、過ぎ去った昔の話だという人たち。この人たちこそ、歴史を深く土中に埋没させてしまおうとする本当の加害者たちではないでしょうか。 2013年7月6日
「真実・和解のための過去事整理委員会」元 調査官 金栄珍(キム ヨンジン) 『南営洞1985』韓国映画上映会/あす大阪中央区 (毎日新聞 2013年7月5日より)
主人公のキム・ジョンテは、ソウル・南営洞にあった治安本部の対共分室に目隠しで連行される。1985年に22日間の拷問で虚偽の自白を強要された金槿泰(キム グンテ)氏の経験を題材に社会派の鄭智泳(チヨン ジヨン)監督が製作し、昨年韓国で公開された。 70、80年代の韓国に留学中、「スパイ容疑」をかけられて主人公同様に拘束され、拷問に苦しんだ「在日韓国良心囚同友会」の会員らも実行委員に名を連ねる。同会の李哲(イ チョル)代表は「無罪判決を受けたのはまだ一部。軍事政権から受けた傷は大きい。事実を風化させないためにも映画をPRしたい」と話している。 参加協力券1000円。問い合わせは事務局の田村幸二さん(06・0721・6670)。【高村洋一】 拷問の時代、映画で知って/在日冤罪被害者が上映会 (共同通信・ソウル支局 2013.7.4より) 1985年に韓国当局が行った拷問捜査の被害者の証言を基につくられ、同国で昨年衝撃を与えた映画『南営洞(ナミョンドン)1985』が、6日に大阪で、7日に東京で、それぞれ上映される。
1970〜80年代に韓国で拷問され、「北朝鮮スパイ」だとの虚偽の供述を強いられ服役した在日韓国人の冤罪(えんざい)被害者らが上映会を企画した。 在日被害者は少なくとも15人が、最近の韓国での再審でスパイ罪の無罪が確定したが、他に100人以上の被害者がいる可能性もあり、被害の全容も分かっていない。 上映会実行委員の一人で、1979年まで2年間服役し、ことし5月に再審無罪が確定した埼玉県秩父市の金整司(キム・ジョンサ)さん(57)は「私たちは映画の場面と同じ拷問を受けた。1980年代まで隣国でこうした残虐な行為が続いたことを日本社会も知ってほしい」と話す。 南営洞は警察の取調室があったソウルの地名。「民主化運動の父」と呼ばれた故金槿泰(キム・グンテ)氏が1985年夏、この取調室で体に電気を流されたり、水で気道をふさがれたりする拷問を22日間受けた実話を再現した。もだえ苦しむ主人公を「拷問技術者」と呼ばれる取調官が痛めつける凄惨(せいさん)なシーンが延々と続き、“北の指令で政府転覆を企てた”との架空の容疑の「自白」に追い込まれる過程が描かれる。 後に閣僚も務めた金槿泰氏は、電流による脳の損傷が疑われる脳血栓が原因で2011年末に64歳の若さで亡くなっている。社会派映画監督の鄭智泳(チョン・ジヨン)氏が金氏の著書を読み、30人余りの拷問、冤罪被害者の証言も参考にして製作した。息をさせず苦しめる場面などは、実際の状況の通りに行い「俳優への拷問を強いる撮影は、私にとっても拷問だった」と語る。 韓国の映画業界によれば約33万人を動員したが「恐ろしくて見たくない」との反応も。鄭氏は「恐ろしく、痛みを感じる映画だが、韓国が今までどのような道をたどってきたのか、一人でも多くが、痛みを感じながら理解してほしい」と話し、被害者自身が日本での上映を進めたことをありがたがる。 金氏を責め立てた拷問専門の元刑事は、民主化後に違法捜査を問われ服役したが、出所し、昨年書いた回顧録では自分の行動を「愛国行為」と主張した。 こうした風潮が残ることにおびえ再審を望まなかったり、拷問で精神を病んで今も社会生活が送れなかったりする被害者が日本にもいる。金整司さんは「被害の実態が知られることは声を上げられない被害者を救済する力にもなる」と、日本での上映の意義を話している。 (ソウル共同=粟倉義勝)
《在日元政治犯らが上映会》 拷問、でっち上げの軍事独裁 (『新聞うずみ火 No.93』(2013年7月号)より) 軍事独裁政権下の韓国で民主化運動家らを過酷な拷問で弾圧した事実を描いた映画『南営洞(ナミョンドン)1985』の日本初の上映会が7月6日に大阪、7日に東京で開かれる。 『南営洞1985』は、『ホワイトバッジ』『折れた矢』など社会派の作品で知られるベテラン・鄭智泳(チョン・ジヨン)監督の新作。昨年秋、韓国内で封切られ大きな反響を呼んだ。原作は元国会議員の故金槿泰(キム・グンテ)氏の手記『南営洞』。 全斗換(チョン・ドファン)政権下の1985年9月、民主化運動のリーダーだった金氏が22日間拷問を受けた実話がベースだ。「南営洞」は「恐怖の代名詞」と呼ばれたソウル市南営洞の「治安本部対共分室」を意味する。映画では、残忍な拷問、事件が担造されていく過程が克明に描かれる。 上映会に取り組むのは、母国留学中などに事件をでっち上げられ、獄中生活を強いられた在日の元政治犯ら。映画で描写される拷問を自らに重ねる人たちだ。大阪では関西在住の元政治犯でつくる「在日韓国良心囚同友会」が中心になっている。 メンバーの一人、李宗樹(イ・ジョンス)さん(54)=京都市=は1982年、高麗大2年の時、突然、下宿に来た男に同行を求められ、軍保安司令部に連行された。殴打、水責め、電気拷問。何度も気を失い、ついには虚偽の自白に追い込まれた。身に覚えのない罪で懲役10年の判決。5年8ヵ月獄中にあった。「独房での眠れない夜、拷問した相手をどうやったら完全犯罪で殺せるか、そればかり考えていた」と振り返る。 『南営洞』の原作者、金槿泰氏は一昨年他界したが、死因は拷問による後遺症ともいわれている。李さんも若くして難聴になった。いまも拷問や獄中の夢を見、トラウマに苦しめられる。 李さんは慮武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の2006年、「真実と和解・過去史真相究明委員会」に調査を申請。委員会が再審を勧告、在日元政治犯として初めて再審無罪を勝ち取った。その後、5月末までに13人が再審無罪。さらに数人が再審決定を受け、公判開始を待っている。政治犯とされた在日は100人超。名誉回復の動きは緒に着いたばかりだ。 一方、韓国ではいま、脱北者らが摘発される事例が相次いでいるという。「かつての僕たちのように韓国内に身寄りがないなどの共通点があります。しかも僕たちと違って令状があるなど巧妙になっている。韓国も日本も物質的に豊かで、一見平和でも、国家の暴力は存在している。この映画を通し、『大変な時代があった』ではなく、現実の問題として捕らえてほしい」。 大阪は6日午後6時から「エルおおさか」。東京は7日午後6時から「なかのZERO」。ともに監督、俳優と元政治犯のトークセッションがある。1000円。問合せは大阪が田村さん(06・6721・6670)、東京は金さん(080・3483・9998)。(栗原) |