=全泰壹氏焼身決起33ヵ年 大阪の集い= | ||
オモニ、妹が語る韓国労働運動の足跡 | ||
市民の会 井上 和男 |
1970年11月13日、韓国ソウルの地で「私たちは機械ではない、勤労基準法を守れ。私の死を無駄にするな!」と叫び、22歳の青年労働者全泰壹氏は焼身自殺を遂げた。彼の命をかけた闘いは、軍事独裁政圭~下の厳しい情勢の下での韓国民主化運動・労働運動を奮い立たせた。 そして、彼の遺志は多くの労働者民衆に引き継がれ、1988年以降、毎年11月に労働者大会が開催され、今年も5万人の労働者民衆が集った。その先頭には、“韓国労働運動の母・李小仙オモニ”がいつもたっておられる。 愛する息子の死を乗り越えて33年間、韓国民主化運動・労働運動の先頭で闘って来られた李小仙オモニが、全泰壹氏の妹・全順玉氏と共に初めて日本を訪問され、11月23日に大阪で二人を歓迎する集いが開催された。 会場は、溢れるばかりの参加者で埋まり、李小仙オモニは歳を感じさせない元気な姿で、私たちの前に登場された。 集会は、まず全泰壹氏をはじめ韓国労働運動に命をささげた烈士に対して黙祷を行い、続いて韓国労働歌の合唱から始まった。 お二人の話に先立って、ヨンデネット大阪共同代表の合田氏から、「李小仙オモニの存在は、韓国ばかりでなく日本の労働運動にとっても大きい。私たちも、全泰壹氏の遺志を決して風化させてはいけない」との挨拶があった。またヨンデネット大阪事務局長の林氏から、この間の日韓労働者連帯闘争の経過が報告され、33年間の歴史の重みを参加者全員で再認識した。 講演は、最初に全順玉氏から始められた。全順玉氏は、兄・全泰壹氏の死後、李小仙オモニと共に清渓被服労組で闘ってこられ、1988年に来日し大阪での集会に参加されている。その後、英国へ留学し博士号をとられ、先頃、韓国へ帰国された。 全順玉氏の公演内容は、次のようであった。 新自由主義は、1979年サッチャー政権下の英国で始まった。当時、英国の労働組合は強力だったが、公営企業の民営化と徹底した競争原理の導入の前に、個人主義が蔓延し徐々に弱体化した。例えば、英国の国鉄の民営化に対して、他の企業労組は応援しなかったし、政府が他企業の争議支援を違法とする法律を上程しようとした時にも、反対闘争を組めなかった。また、外国人労働者問題なども十分に対応できなかった。 その結果、300万人もの失業者がありながら、労働組合はそれに対応できない状態だった。自分の組織に余りにも執着し、外に目を向けることをしてこなかったのが大きな原因であり、それが労働組合つぶしを狙う資本の側に絶好の機会を与えたのだ。 1997年、労働党が政権をとったが、労働党は保守政権が築いたものの改革を引き伸ばし、3年間、労働条件の改善政策を示さず、労働組合も政労交渉の場に労働党を引っ張り出せないで決別した。 1979年から20年以上を経たが、この間に新自由主義は英国から世界中に蔓延し、労働者を搾取し苦痛を与えて続けている。 冷戦崩壊後、進歩的な労働組合は新自由主義との闘かいに悩みながらも、世界各地で粘り強く闘い、何とか新自由主義の攻勢に歯止めをかけている。新自由主義に対する闘いでは、自分の組織だけに執着せず、非正規労働者・外国人労働者問題などをテコとして労働者の連帯を強めることが必要である。 新自由主義の流れは世界中に広がっており、世界中の労働組合がそれに対してどう闘うかを模索している。日本も例外ではなく、日本の労働運動の現状を悲観する必要はない。 私は、1988年に来日して以来、日本の労働運動には愛着と関心があり、日本の労働運動には、それができる底力があると信じるとし、最後に次の言葉で講演を締めくくられた。 韓国には、その年に最もよく闘った労働組合に「全泰壹労働賞」が贈られる。今、この賞の対象を東アジアに広げようという話がある。その時には、大阪からも受賞者ができることを期待します。 次の登壇した李小仙オモニの講演は、33年前、平和市場被服労働者の労働条件改善のために必至に闘う全泰壹氏の話から始められた。 当時は、息子が労働運動の話をするが全然わからなかった。でも、息子が言うのだからと勤労基準法の本を買い、少しでも覚えて愛する息子が喜ぶ顔を見るのがうれしくて、道に木で字を書いたりして勉強した。しかし、仕事で疲れた後の勉強はつらくて、ある日、「もう、勉強しない」と言った。その時、息子は「きっとオンマにも必要になるのに」と残念がっていたが、あの時、勉強しとけばよかったと後で悔やんだ。 李小仙オモニは、全泰壹氏が焼身決起した後、息子が平和市場の幼い労働者たちを何とか助けたいと必死に動いていたことが、本当に分かったと話を続けられた。 病院へ担ぎ込まれた全泰壹氏は、最後の願いとしてオモニに「これまで人を愛し、人を大事にし、困っている人を助けろと育ててきたじゃないか。そのオンマが、私の遺志を引き継いでくれないなら、オンマが死んだ後、天国で私と出会うことはないだろう。だから継げないんだったら、葬式もしてくれるな」と話し、最後の力を振り絞って「できるだろう! できるだろう!」と何度も訴えたそうである。 李小仙オモニは、「朴政権下の厳しい時代に労働運動に身を投じ、最後まで続けられたのは、何も知らずに、ただ息子との約束を果たすために必死だったからだ」と振り返っておられた。そして、全泰壹氏の遺志を引き継ぎ、平和市場の幼い労働者を助け、常に運動の先頭で闘ってこられた。1987年に結成された韓国民主労総が合法化された時には、「やっと、息子の思いが実現したと思い、本当にこれまでで一番嬉しかった」と、その時の思いを語られた。 また、李小仙オモニは、「労働者遺族の会」を組織されていて、労働運動の中で命を亡くした労働者遺族の支援も行っておられる。ここでも皆から“オモニ”として慕われ、先頭に立って闘っておられる。 「労働者遺族の会」での闘いについては、 労働運動で命を落とした人が出れば真っ先に現場へ行き、「死者の遺志を継がなければ」と家族を励ます。時には、経営者や政府が家族に対して「死んだのは、この人たちのせいだ」と入れ知恵し、遺族の会が家族に非難されたことも。しかし、今はそんな家族とも誤解が解け一緒に運動している。今後は死んだ人の名誉回復をし、国立墓地の建設を考えているそうだ。 今年、韓国では労働争議の間に何人もの労働者が焼身自殺しているが、「最近は、政府も経営者も労働者の死に対して一切責任をとろうともしない。経営者は政府に献金し、政府はその献金をごまかそうとしている。それが今の韓国のありさまだ」と、今の韓国の状況を嘆いておられた。 最後に、「もうだめだと失望せず、やればできるという信念をもつことだ。私は何も学ぶことがなく何も知らなかったが、これまでやって来た。絶望のために死んではいけない。残された家族には悲しみだけが残る。死ぬ覚悟で最善を尽くさなければならない。人間らしく正当な社会を作るために」と。 こう言われて、李小仙オモニの講演は終わった。 たぶん韓国の多くの労働者は、こういうオモニに何度となく励まされ、元気をもらってきたのだろう。そんな韓国労働者の気持ちが伝わってくるような気がした。そして、オモニもそういう若い労働者に期待をして、まだまだ頑張らねばと語り続けておられるのだろうと思う。 李小仙オモニ、いつまでもお元気で、韓国の、そして日本の労働者民衆を励まし続けてください。 |