《東大阪における外国人問題》
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東大阪における外国人問題の歴史と展望 | ||
市民の会・代表 合田 悟 |
T.東大阪市の「国際化大綱」 1.「東大阪市外国人住民施策基本指針―ともに暮らせるまちづくりをめざして―」(2003年3月) 「東大阪市外国人住民施策基本指針」(以下「新基本指針」)が2003年3月に策定されました。これは、1982年に策定された「東大阪市在日外国人(主として韓国・朝鮮人)の人権に対する基本指針」(以下「旧基本指針」)が作られてから20年になることろから、時代も大きく変わり、外国人施策を見直さなければならない点が出てきたため、約2年余の時間と30人の日本人・外国人が審議して東大阪市長に答申して、東大阪市人権文化部がまとめたものです。 まず、この「新基本指針」のベースになっている「旧基本指針」(1982年)の経緯について触れておく必要があります。この「旧基本指針」はすぐれた内容が盛られており、「人権に対する基本指針」というだけに、当時1980年代にこれだけの内容のものが東大阪市において策定されたことは、非常な驚きでもあり誇りでもありました。 それは、1979年9月に日本政府が「国際人権規約」をようやく批准して発効したばかりのときで、その数年後に、この人権規約の精神を踏まえて、「世界人権宣言」「難民条約」など国際的人権法を基準にしながら、東大阪市における外国人、とくに在日韓国・朝鮮人の人権について、現状の問題点を正しく指摘し、また厳しく批判しながら、今後のあるべき方向性をはっきりと展望し、内容を持ったものとして策定されています。 たとえば、現状については、 「戦後、在日韓国・朝鮮人は、祖国の独立に伴い、日本の国籍を一方的にはくだつされ、しかも、それに伴う何らの「保障」も講ぜられることなく、日本における在留権は、不安定のままに放置され、生活、社会保障、教育等の各分野における基本的人権の保障からは、除外または制約されて今日に至っています」と、的確に状況判断が述べられています。しかし、このような正当な見解が堂々と表明することは大変なことでした。 さらに今後の課題として、次のように続けています。 「このように、在日韓国・朝鮮人の歴史的背景、ならびに今日的状況を直視して、憲法ならびに国際人権規約に則り、外国人を含む全ての市民の基本的人権が擁護され、あらゆる差別の撤廃を基本に据え、本市が当面する課題の解決にむかって努力するため、この指針を制定するものであります」と、当然のこととは言え、すっきりとした姿勢をここに見ることができます。 当時、東大阪市は1982年5月に市長選挙で四選を目指した革新の伏見格之助氏が落選し、保守の北川謙次市長になったときでした。 北川氏は選挙前に、「伏見市政が悪いため、東大阪市の人口は50万を割ってしまった」と攻撃する文書を広く配布しました。ところが、東大阪市の人口は当時52万人で、そのうち外国人登録者が2万2千人でした。この外国人を除いたら、東大阪市の人口は50万人未満ですが、人口というのは外国人をも含めた合計数なのです。この北川氏の見解は「外国人は東大阪市民ではない」という表明であったのです。わたしたち日韓問題を考える東大阪市民の会(以下「市民の会」)は、北川氏へ「外国人を人口から排除することは、民族差別である」と抗議し、糾弾しました。新聞にも取り上げられました。北川氏は「住民基本台帳に発表されている東大阪市の数値を自治省統計から用いた」と、お粗末な見解で言い逃れをし、市民から失笑をかいました。 「旧基本指針」が制定されたのは、この北川謙次氏が市長に就任してからでありました。恐らく、伏見格之助市長時代に制定のための準備が進められてきたものであったと思います。それでもこの内容からして、外国籍住民を東大阪市民ではないとして排除しようとする保守派の市長が、この「旧基本指針」をよくぞ容認し発効させたものだと思いますが、その策定当時の事情についてはわかっておりません。 本来なら、この「旧基本指針」の最初に市長の挨拶か、巻頭言があって、この基本指針策定の動機・背景などが記されるものですが、それもありません。ただ表紙に「東大阪市在日外国人(主として韓国・朝鮮人)の人権に対する基本指針」「東大阪市」と印刷されているだけです。日付については、最後に、「S57・11・1」のゴム印が押されているだけです。策定の経緯や、担当した部署などについても記されていません。 ただ、この素案を作成したのは在日韓国人で国際法学者の金東勲教授であることは、ご本人からもお聞きしたので間違いはありません。だからこそ、国際人権法に則って東大阪に在住する外国人の人権を、そして東大阪市に在住する日本人の人権をも含めて、すなわち外国人の人権を護ることは、日本人の人権を護ることなのだという視点、精神に基づいた格調高い基本指針となったのでありましょう。 この「旧基本指針」は、「入管法」や「外国人登録法」で規定されているいくつかの問題点を指摘し、撤廃もしくは訂正されるべきだと思われる点について、はっきりと指摘しています。 それは、「指紋押捺制度」「外国人登録証明書の常時携帯義務」「永住権者への退去強制」の三点です。これらは、外国人管理の中では譲れない項目として日本政府・法務省は頑強に拒否しています。にもかかわらず、そのなかで「指紋押捺制度」は、ついに撤廃されました(永住者は1992年、非永住者は1999年)。これは指紋押捺に対する反対運動が国際的にも大きく盛り上がったことの成果でありました。それとともに、この「旧基本指針」でも指摘されていたことが実現したことでもあります。だからこの部分は、もはや実現したわけですから基本指針から削除されてよいでしょう。 次に、表題にあるように、この「旧基本指針」は「(主として韓国・朝鮮人)に対する」とあります。当時、東大阪に在住する外国人といえば、韓国・朝鮮人が圧倒的に多かったので、このように特定されております。現在、東大阪に在住する外国人は国籍別では50ヵ国以上にもなっています。かっては東大阪における外国人といえば、90%以上が韓国・朝鮮人でありました。 しかし今は、多くの国籍の外国人が在住しております。これらの人々をふくめて東大阪市に在住する外国籍住民が、国際人権法が示す方向、この「旧基本指針」が制定された1982年以後、国際的に新たに制定された条約、すでにあった条約で日本が批准したもの(「人種差別撤廃条約」1965年・日本1995年、「児童権利条約」1989年、日本1990年、「女子差別撤廃条約」1979年・日本1985年)などに沿ったものにするように、「旧基本指針」の見直しが求められていました。 さて、ここで指摘し整理をしておかねばならないことがあります。それは、東大阪市における外国人の問題については、どこの課が所管するのかということです。 東大阪市は、1991年に人権文化部に文化国際課を設置しました。「国際課」と言う限り、外国人問題は文化国際課がいっさい引き受け、統括するものと考えていました。 文化国際課が最初に手がけたのは、「東大阪市国際化対策大綱―世界市民のまち東大阪市をめざして―」(以下「国際化大綱」)の策定でした(1992年6月)。これは「旧基本指針」が制定されてから10年後のことであります。なぜこの時点で国際化推進なのか、その理由が鮮明にはっきりと掴めません。 というのは、人権文化部には文化国際課と人権啓発室があり、「旧基本指針」は人権啓発室が中心に策定したのでありました。そして新設された文化国際課は、「国際化大綱」策定の理由として、国際化環境が変化したからだとのべています。たしかに、国際環境は90年代にかけて変化しました。だから、東大阪市に「国際化大綱」が必要なのだと言うのでしょうか。 今まで、それらしきもの、外国人施策の方針の大枠に関するものは何もなかったのですから、方向性を示すものが必要であることは確かです。それならば、東大阪市における外国人の現状を踏まえたうえで、それを策定すべきであります。 東大阪市には、2万人の外国籍住民が戦後からずっと住んでいるのです。しかも戦前・戦中・戦後を通じて、多数の韓国・朝鮮人、中国人が東大阪市に住んでいるのです。国際化といえば、まさに東大阪市は国際化そのもののまちであったし、現在もそうなのです。このような東大阪市の現実を凝視するならば、「今までは、国と国との交流は政府レベルの課題であったが、これからは地域と地域、個人と個人が中心になって国際化が推進されなければならない」と、どこかのテキストを丸写ししたような他人事のような文字を並べて、今まではそうではなかったが、90年代になって急にそのような状況になったかのようにのべ、だから「国際化大綱」が必要なのだというのでしょうか。これを策定した人たちに、「あなたは東大阪市の何を見ているのだ!」と言いたくなります。 文化国際課を設置し、「国際化大綱」をつくらねばならない必然性がどこにあるのか。例えば、東大阪市に在住する外国人からの要請があったり、当時まさに「指紋押捺制度」への反対運動が盛り上がろうとする時期でありましたから、それと何らかの関連があるのかと考えましたが、当時、h指紋押捺拒否運動iに関わっていましたが、その運動に関わっている団体や個人に「国際化大綱」策定への参画、呼びかけはありませんでした。 ただ、姉妹都市交流に関わり、それを推進している人々にとっては、東大阪市における姉妹都市についての所管はどこか、どのような位置づけなのかという問題意識はあったと思われます。どこかに明記され、所管がはっきりする必要があったと思います。だから、「国際化大綱」の基本理念のなかに「姉妹都市交流をはじめ市内企業による経済交流、市内大学の留学生招致など、これまでに進められてきた様々な交流活動を一層推進し……」と姉妹都市交流の認知と推進が書かれているのを見るとき、なるほど、これが「国際化大綱」策定の理由の一つだなと思いました。 この一文が入ることによって、国際交流というのはアメリカやドイツの姉妹都市へ、お互いに行ったり来たりすること。背の高い欧米人と握手をしている写真が、新聞や「市政だより」に掲載される。それによって、東大阪市は国際交流をしていると考えている人が一杯いたのです。それと同じ考えで、それ以外に何もしなかった行政が、それを継続して行くことが東大阪市の国際化推進であると考え、文化国際課の業務の位置づけをしているのであります。 この「国際化大綱」が制定されたことによって東大阪市における国際化施策は、東大阪市に在留する外国人が韓国・朝鮮人をはじめアジアの人々が圧倒的に多数であるのに、欧米との交流(姉妹都市交流を中心に)を強力に推進するようになったのは事実であります。このような「脱亜入欧」的方向に抗議をしたのが、私たち「市民の会」であり、「東大阪国際交流フェスティバル」のメンバーであります。 「市民の会」では毎年、東大阪市に対しての「要請文行動」をしています。また1996年から毎年開催されている「東大阪国際交流フェスティバル」は、テーマを「わたしたちのまちはアジアの街、わたしたちのまちは世界の街」をうたっています。「国際化大綱」が「世界市民のまち東大阪をめざして」をうたい、アジアは世界の中にあるのだから、わざわざアジアと言わなくとも含んでいると言うのでしょうか。 この「国際化大綱」は、今も東大阪市の一つの基準として存在し、活きています。そしてこの大綱の定める「東大阪市国際化推進懇話会」が存在しています。 また、初頭に記しました「東大阪市外国籍住民施策基本指針」(新基本指針)が制定され、「国際化大綱」との整合性をがとられないまま、今日に至っています。順序からいけば、「国際化大綱」が改定され、それに沿って「新基本指針」が策定されるべきであったのに、それがなされないままになっています。 今、東大阪市の「国際化大綱」をどうするのか、現在のものを廃棄して新たに策定する方がよいと思いますが、改定して見直すのかどうかが当面の大きな課題です。 「国際化大綱」(1992年6月)についてのさらに詳しい分析と、「新基本指針」(2003年3月)の説明は、次回に掲載することにします。 [つづく]
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